「ねぇ、カーティス。私がカーティスにお願いがあるって言えば、カーティスはそれを叶えてくれるかしら?」


 空が青く澄み渡った初夏のある日。ロンドン西側に位置するウェスト・エンドに並ぶ貴族たちの館の一つであるグローヴァー家の町屋敷で、今日の空の青よりも惹きつけられるサファイアの瞳と太陽の光のように輝く金の瞳を持った乙女にして、このグローヴァー家の一人娘で在るエヴァンゼリン=グローヴァーは、自らの屋敷を訪れていた客人に向かって微笑んだ。
「―――叶えてやらんこともないが」
 優しく、華麗でありながらも、何かを期待するかのような乙女の微笑みを受けて、カーティス=セルシウスは歯切れの悪い口調で言った。


 エヴァの願いを叶えること自体は、カーティスにとっては容易いことである。カーティスは社交シーズンに入ったために数多の貴族たちが集い、様々な事業家も住まうこのロンドンの街中においても、肩を並べる者が居ない程の富の支配者である。その経済力を行使すれば、エヴァが所望するモノを用意するなど、彼にとっては全く苦にならないような瑣事である。ただし、彼女の望みが金銭で片付くモノである、いう条件が付くのであるが。

 そう、彼女の「お願い」がモノであるのならば、話は簡単なのである。エヴァが欲しいというのであれば、輝くような大粒の金銀財宝であろうが、他国より取り寄せなければ手に入らないような貴重品だろうが、水晶宮のような建造物だろうが、獅子だろうが、象だろうが、竜だろうがカーティスは用意出来よう。
 だが、彼女のお願いがカーティスに何らかの行為を要求するものであれば、話は変わってくる。カーティスの気難しさはその所有する富と同じくらいに有名である。エヴァの頼みとあれば譲歩することもあるが、頼みと言われても受諾しかねる事も多い。仮に、誰かに頭を下げてくれと言われるような事があれば絶対に出来ないだろう。
 物欲がそれほど強くないエヴァのお願いとして考えられるのは、後者―――カーティスに何らかの行為を要求するものである。その為、カーティスは憮然とした表情になる。

「それで、そんな回りくどい言い方をしなければならんような願いとやらは何だ?」
「フフ、そんなに怖い顔にならないで。無理難題を押し付けようって思ってるわけじゃないから」
 そんなカーティスの表情を見て、エヴァは小夜啼鳥のような美しい声で笑った。


「私、薔薇が欲しいの。カーティスから」


「―――薔薇?」
 エヴァの望みを聞いたカーティスはそのお願いの小ささに、怪訝そうに聞き返した。彼が知る限り、薔薇と云えば薔薇の花―――気高く咲き誇るその花だけである。
「薔薇と言えば、薔薇の花か?」
「えぇ、薔薇の花よ」
 カーティスの問いかけに、エヴァは他に薔薇という名前の物が何かあったかしら?と笑った。

 薔薇は花の中では高価であり、至る所で見られるような雑草と比べると入手し難いものではあるが、しかし、貴族であるエヴァから見れば入手は容易であり、土地に制限のあるロンドンの町屋敷では薔薇を咲かせる為の庭は望むことは出来ないが、グローヴァー家の治める土地にある彼女の家の屋敷―――薔薇の城と呼ばれる程、薔薇の咲き誇る屋敷に戻れば飽きるほど見る事が出来る花である。
 畏まってお願いするような物とは思えない。

「薔薇如き、城に戻れば―――」
 いくらでも見れるだろう。そう言おうとしたカーティスだったが、彼の言葉にエヴァは小さく頭を振った。
「勿論、家にいる子達も大好きよ。でも、今欲しモノは違うのよ」
 エヴァは、自らが所望する花のように美しく、艶やかに微笑んだ。
「私はカーティスから薔薇が欲しいの。―――駄目?」
 その微笑みと言葉から、誰が逃れる事が出来ようか。それも、相手はカーティスが唯一の執着と愛情を抱く乙女である。
「―――、いや、それくらいならば問題はないが」
 それは取るに足りないお願いである。どんな難題を吹っ掛けられるかと思っていたカーティスは安心すると同時に、何故そんなものを欲しがるのか、エヴァの心がわからずに、首を傾げる。
 それでも彼女の願いを引き受けたカーティスに、エヴァはその笑顔に輝きを増した。
「まぁ、ありがとう、カーティス。楽しみにしてるわ」
 エヴァはそう言うと、胸の前で両手を叩き、喜んだのであった。



 カーティスが、再びエヴァの元を訪れたのはその翌日の午前のことだった。
「エヴァ。薔薇だ」
 色気も何もない言葉と共に、カーティスはエヴァに花束を差し出した。

 花束は、数本の薔薇が包まれているだけの小振りなものだった。カーティスの所有する財を考えれば、それは驚くほど小さな花束だった。カーティスにもなれば、望めばロンドン中の花屋から薔薇を取り寄せる事が出来る。色も、品種も、大きさも望むままに、望む数だけ手に入れる事が出来よう。
 しかし、今、カーティスがエヴァに差し出したのは数本の薔薇のみであった。カーティス=セルシウスの名を知る者が見れば、あまりにも小さな花束に首を傾げるであろう。しかし、その薔薇を見れば、その疑問は直ぐに解消された。
 エヴァに贈られた薔薇は、いずれも選び抜かれたような見事な花であった。痛んだ花がないのは勿論、美という言葉が相応しい整った花の形。そして、何より注目するのはその花びらの鮮やかな紅である。色褪せることなく、かといって濃すぎて黒ずんだ印象を与えるものでもなく、見事な紅であった。

 エヴァは差し出された薔薇を受け取りながら、その花束をじっと見つめた。
「これは、カーティスが選んでくれたの?」
「あぁ」
 花束を見つめたまま感情を表さないエヴァの問いかけに、カーティスは短く頷くとエヴァの反応を待つことにした。エヴァが所望した薔薇の花を贈ったのだから、それなりの反応があるはずである。気に入ったにしろ、気に食わなかったにしろ、何らかの反応が。

 しかし、カーティスがエヴァの反応を見るのに時間は掛からなかった。カーティスが答えるとエヴァはその腕に抱える薔薇の花束が引き立て役にしかならないほどの優美な微笑みをカーティスに向けたのであった。
「フフ、ありがとう」
 数本とはいえ、これだけの色の紅を探そうと思えば一苦労では済まない。多くの赤の中でも映える真紅のみを選ぶためにはロンドンのにある多くの花屋にある薔薇を厳選しなければ出来はしない。恐らくは、昨日は一日中花屋を巡っていたことだろう。
 満足したように謝意を述べたエヴァにカーティスは取るに足りない事であるかのように言ったのであった。

「―――それがお前の望みだろう」

 苦労したと誇るような言葉も、労いを求める言葉でもない。ただ、エヴァがそれを求めたからそうしただけだと云うカーティスの言葉に、彼女は嬉しそうに一度目を閉じた。
「えぇ。私が思っていた以上に素敵な贈り物だったわ。」
 薔薇が欲しいと言えば、近くの花屋で適当に選んだモノを贈ることもできる。その中に見せてくれた誠意が何よりも嬉しい贈り物だった。エヴァは上目遣いにカーティスを見て、歌うように言った。
「ねぇ、カーティス。カーティスは紅い薔薇の花言葉を知ってる?」
「花言葉?―――何だ、それは」
 エヴァの言葉に、カーティスは訝しげな表情でエヴァを見た。平静を装うのではなく、本当に知らないようである。薔薇には様々な色の物が存在する。その中で、カーティスが特に紅を厳選したその理由がエヴァは知りたかった。

「じゃあ、カーティスはどうして私に紅い薔薇をくれたの?」
「―――――」
 次のエヴァの言葉に、カーティスは沈黙した。カーティスの性格上、特に意図がなければ即答するところであるが、黙ってしまったところを見ると、何らかの意図はあるようだ。
「聞いて良い?」
「お前が気にするようなことではない」
 強請るようなエヴァの瞳から逃れるようにカーティスは瞳を逸らした。どうやら言いたくないらしいが、エヴァは顔を綻ばせてカーティスに詰め寄った。
「ねぇ、お願い」
「それは聞けん」
 断固とした台詞で逃げるように、カーティスは一歩退いた。しかし、声から察するに彼は不機嫌と言うよりは、照れ隠しのようである。
 カーティスの真意が想像もつかないわけでもない。ただ、想像がついても相手の口から聞きたい言葉というものもある。カーティスを愛しむように、エヴァは紅い薔薇の花束を抱えたまま、彼に詰め寄ったのであった。

 カーティスの瞳と髪と同じ―――まるで彼自身を象徴するかのような、紅い薔薇の花を抱えて―――



 紅色の薔薇の花言葉:「死ぬほど恋い焦がれています」



コメント

 天宮慧様のサイトの1000hit記念のフリー小説をお持ち帰りしてしまいました。
 個人的に、エヴァのお願いを叶えてあげるカーティスがカッコよくて大好きですvv
 私は薔薇自体詳しくは無いのですが(どんな種類があるとか、花言葉とかの類などの意味で)、紅の薔薇の花言葉って結構ロマンティックですねー。


 慧様、1000hit突破おめでとうございます。これからもサイトの運営を頑張ってください。



雲峯水零