彩樫荘へようこそ


 夕暮れで朱く染まる町を一人の青年が歩いていた。
 青年は右手に地図とメモを、左手にボストンバッグを持ち、何かを探すように周囲を見回している。
「夕霧町彩樫四丁目十三番地、と。……あっちの方だよなぁ。本当にあっているのか?」
 右手のメモには住所らしき走り書きがあった。青年はその住所を元に地図を見て進んでいたのだが、地図の通りに進めば進むほど少ない家の姿がさ らに減り、村の外れへと進んでいる。
 彼が今いるのは高層ビル群に囲まれた大都会ではなく、家の数は少ないものの旧き良き時代を感じさせるような山間の集落だったが、それを考慮し ても村から外れ過ぎている。青年は本当にこの先に彼の目的地が在るのだろうかと訝しんだ。
 青年の名前は袴田紘一。国立大学で民俗学を専攻する大学生だ。
 紘一が今回この村を訪れたのは、この周辺に強く根付く妖怪伝承とそれにまつわる風習の研究の為だった。そして、彼が今目指しているのは今回の 研究の間、滞在することになる旅館――その名も彩樫荘(あやかしそう)――だ。
(――相当な田舎だとは書いてあったけれど)
 紘一が現地入りする前、村について少し調べた時に、この村が僻地であるという情報を得てはいたが、実際に来てみると彼の予想以上に人の姿も 家の影も無かった。紘一は少し不安になって足を止めて目を凝らすと、自分の進む道の先を見た。
「あれか?」
 青年が視線を定めた先――彼が今居る道の先に一軒の日本家屋が見えた。青年は自分のメモが間違えていなかった事に安堵すると、 その日本家屋へと向かったのだった。


 やがて、彩樫荘に辿り着いた。その建物を見て紘一は低く唸った。
「うわぁ……」
 そして、自分の正面に在る彩樫荘を凝視した。
 宿を予約した時から、彩樫荘は近代的な造りのシティホテルではなく、落ち着いた造りの――そして、多少年季の入った――旅館ではない だろうかと思っていたが、村同様、紘一の予想以上に古い建物だった。
 それに加えて鬱蒼と生い茂った木々、その向こうにある古びれた日本家屋は夕焼けで影を纏い佇んでいる。そして聞こえてくる鴉の鳴く声。
 子供達が見れば「お化け屋敷」と騒ぎそうな宿だった。
(本当になんか出ても不思議じゃないかも)
 お化けやら妖怪にまつわる伝承は日本各地に存在するのだが、この村の周辺では「雪女」に纏わるエピソードが残されている。紘一は今回、その雪女 という妖怪についての調査に来たのだが、この彩樫荘の外観を見れば、本当に妖怪やらお化けやらが出ても不思議ではないように思われた。
「いや、問題はそこじゃなくて。営業、してるよな?」
 そう呟いて紘一は旅館の門扉から宿の庭を覗いた。
「古くても食って寝て風呂入って、あとはレポートまとめる場所があればいいんだけど」
 紘一の滞在の目的は調査とそれを纏める事である。豪華な宿を満喫するというものではない為に、宿としての最低限の機能さえ備えていれば文句はな い。加えて、彩樫荘は人が好んでは寄りつかないだろうその外観の為か、それともこの地が観光の名所ではないためか大都市のホテルと比べると 破格の安さであり、金銭的にそれほど余裕のあるわけではない大学生の紘一にとってはその値段を前にすれば外観の古さ、不気味さは我慢出来るもの だった。しかし、どんなに安価でも営業していなければその恩恵を受けることは出来ない。
「でもちゃんと予約をしたし大丈――」
 自分が宿の予約をした時に電話した事を思い出している紘一に、突然若い女性の声がかけられた。
「袴田様でいらっしゃいますか?」
「わぁぁっ!?」
 すぐ傍から掛けられた声に反射的に悲鳴をあげた。そして、弾かれたように声のした方向を振り向くと、そこには一人の女性が立っていた。 儚げな雰囲気を纏う美しい女性だ。
(い、何時から居たんだろう)
 彼女の姿を見落としていたのだろうか、それとも彼女は自分の後に此処にやってきたのだろうか。いずれにしても、自分が旅館の入口で中 を不審そうに凝視しているところを見られてはいなかっただろうか、と紘一は焦った。
「あの?」
 過剰なまでの紘一の反応とその後の沈黙に、女性は困ったように首を傾げた。女性が戸惑うのを見て、紘一は慌てて弁明する。
「あ、すいません。ちょっと考え事をしていたもので。この宿の方ですか?」
 女性が自分の名前を呼んだことから、紘一は彼女がこの宿の関係者ではないかと思った。女性は紘一の言葉にこくりと頷いて微笑んだ。
「はい。私はこの彩樫荘で女将をしております、雪と申します。ようこそお越しくださいました」
 そう言って雪は深々と頭を下げた。紘一もつられてぺこりと会釈する。
「い、いえ」
「どうぞ、こちらへ。ご案内いたします。お荷物もお持ちいたしますわ」
「あ、大丈夫です」
 雪は荷物を預かるようと言って紘一に向けて手を差し出したが、女性に荷物を押し付ける事に抵抗を感じて紘一はその申し出を断った。改めて バックを握り直すと、紘一は雪に案内されながら門を潜ったのだった。


 彩樫荘の内部は外観の古さに比べると随分と新しいようだった。
(改装したんだろうな)
 雪の後を歩きながら紘一は館内をぐるりと見渡した。しっかりとした和風の造りが紘一を安心させたが、人の気配は感じられなかった。
(――客は、まぁ、少ないだろうし、働いてる人も少ないんだろうなぁ)
 もともとこの村には大勢の観光客を呼べるような名所というものはない。加えて宿のあの外観では十分な客が来るようには思えなかった。 そうすると、必然的に従業員の数も少なくなるのだろう。
(それにしても)
 人の気配が少ない理由について自分の中で答えを作り上げると、紘一は自分の前を歩いている雪の後ろ姿を見た。雪は肌の白い美しい女性だった。 その白さが一般的な肌の白さなら紘一も気に留めなかったのだが、雪の肌の白さは白すぎて、紘一はその事が気になった。
(あまり、外に出ないのだろうか)
 そんな事を考えながら歩いていると、徐々に低い音が聞こえてきた。
「なんだ?」
 自然に発生しているとは思えない音に紘一は周囲を見回した。
 紘一が歩いている廊下には幾つかの扉があったが、音は彼の数歩先にある扉から聞こえているようだった。その音が気になって紘一は 開いていた扉から中を見た。
 そこは厨房だった。室内灯を付けずに窓から差す赤い光の中、一人の老婆が包丁を研いでいた。ゾリゾリという低い音と夕焼けの赤く 暗い光がその光景を不気味に演出させていた。
(ちょっと怖いかも)
 悲鳴をあげるようなものではなかったが、気持ちいいものでもないよな、と思いながら紘一が老婆を見ていると老婆が紘一に気づいたようだった。 顔をあげると、ニヤリと笑った。
「おや、お客さんじゃね?」
「は、はい」
「御客さんは久しぶりじゃ。ゆっくりとしてくだされ」
 老婆は爽やかに笑ったのかもしれないが、室内の暗さから紘一には凄惨な笑顔に見えた。紘一が恐怖を覚えながら頷くと、次は女の泣くような 声が聞こえてきた。
「つ、次は何だ?」
 その音も厨房から聞こえているようだった。目を凝らして厨房の中を見れば、室内の一番奥の方に佇む人影に気が付いた。人影はそこで何かを しているように見えた。何だろうとさらに注意を払うと、皿を持つ女性の姿が見え、同時に老婆とは別の女性の声が紘一の耳へと届いた。
「――三枚、四枚」
 女性は皿を数えているらしかったのだが、その恨めしそうな、悔いるような女性の声に紘一はぎくり、とした。
「――八枚、九枚。あぁ、やっぱり、一枚足りない」
 さめざめとした女性の声に、紘一はそういえば皿を数える女の怪談があったよな、などと思いだしていた。やっぱり引き返そうかな、 という想いが胸を過り、紘一が荷物を握る手に力を込めたその時、雪が厨房へと入って来た。
「袴田様、いかがなさいました?」
 雪の声が聞こえたらしく、皿を数えていた女性がちらりと雪とその後ろに立っている紘一に視線を向けた。
「あら、お客様。いらっしゃっておりりましたの……」
 蚊の鳴くような声でぽつり、ぽつりと呟く女性には何処か気味悪さを感じたが、台詞を聞く限り、この宿の関係者であるらしい。大丈夫、妖怪 などの類ではない、と紘一は自己暗示を繰り返した。
「袴田様、申し訳ありません。こちらは厨房を担当している者達です」
「よろしくのぉ」
「よろしく……お願いします……」
「よ、よろしくです」
 雪に紹介された二人は紘一に向って微笑んだ。しかし、その微笑みは紘一の心を落ちつけるどころか、さらに不安にさせるようなぞっとするよ うな笑い方だった。
(……なんでこんなに怖いんだろう)
 紘一は必死で笑おうとしたが、口元が引き攣ってしまうのを止める事は出来なかった。
「お気に障る点でもございましたでしょうか?」
「いいえ、そういうわけでは」
 気に障るのではなく、ただ怖いだけだった。相手は人間だ、怖がっていたら失礼だろうと必死に言い聞かせる紘一に、皿を数えていた女性が言った。
「それでは、お客様。私は失礼いたしますわ。また、後で」
 出来るのならば、もう会いたくはないなと思いながらも紘一は笑顔を浮かべて頷いた。すると女性は満足したように笑い、紘一の前で すうっとまるで大気に溶けるようにその姿を消していった。
「……」
「……」
 何とも言えない沈黙が場を支配した。紘一は青ざめた顔で口を開く。
「あ、あの――雪さん。今、人が消えたんですけど」
「え、演出ですわ、演出」
 雪はそう言って笑ったが、演出にしてはあまりにも自然に見え過ぎていた。妖怪やお化けの類などいるはずはない、と紘一は自分に言い聞かせるよ うに繰り返したが、理性が拒絶反応を出すのを堪える事は出来なかった。
「……。あ、あの、すみませんがやっぱり帰ろうかと」
「お、お待ちください、お客様!」
 引き返そうとする紘一を引き留めようと雪が紘一に手を伸ばしたので、雪の手が紘一の肌に触れた。ヒヤリ、としたその手の冷たさが伝わった。 その手の冷たさは冷えている、というものではない。氷のような冷たい素手に、紘一は慌てて手を離した。
「ゆ、雪さん。手、凄く冷たいですね……」
「あ、えぇ。先ほどまで氷を触っておりましたから」
 雪はそう答えると、紘一はもう一つ自分が抱いていた疑問を口にした。
「雪さん。ちょっと気になっていたのですが肌、凄く白いですよね」
「ここって太陽の光が遮られておりますので、焼ける機会がございませんで」
「……」
「……」
 にこにこと雪は笑って答えたが、紘一は手に持っていたボストンバックを抱えると、一歩二歩と後ずさった。
 確かに、紘一が疑い過ぎているだけなのかもしれなかった。しかし、それ以上に納得がいかない事が多すぎた。そして、この周辺でその聞く伝承の 主役。それが雪女だったことを紘一は思い出した。
「し、失礼します!」
 紘一はくるりと反転すると、脱兎の如く駆けだした。
「あ、お客様!? お客様、お待ちに――っ!」
 背後で雪の声が聞こえてきたが、最早答える事も振り返ることも出来なかった。紘一は全力で竹林を抜け、そのまま村の外れまで辿り着くと、 やってきた電車に乗り込み、大学へと逃げ帰ったのだった。


コメント
天野直也様から相互記念にいただいた小説です。
直也様の小説はほほえましく、かつ、のんびりとした雰囲気が味わえるので好きです。外界で得たとてつもないストレスを感じるたびに、直也様のサイトで閲覧できる小説を拝読すると不思議と消えてしまう…今日この頃です。



天野直也様、相互記念ありがとうございます。こんな駄文サイトと末長いお付き合いどうかよろしくお願いします。



雲峯水零