僕はあの日、すべてを失った。要するに、地に落ちたのだ…心身ともに。

 ある日突然、崖の上から突き落とされた気分だった。落とされる直前に見たものは、倒れそうになる位の血肉の臭いと、どこかが欠けたり肉片と化した死体。邪悪な微笑を浮かべるあの男…僕が、殺したい位憎んでいる。



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 目を覚ますと、白い天井が視界に広がり、すぐに消毒液の臭いが鼻についた。

 ああ、そうだった。僕は今ベルガモット国軍直営の病院にいるんだった。横を見ると、赤い髪と赤い目の軍人――僕の師匠(ししょう)が、器用にナイフを動かしてリンゴの皮を向いていた。

「起きたか。うなされていたぞ、お前」

「そうですか。おはよう…ございます。師匠」

「おはようって言う時刻じゃねーけどな。おはよーさん、(かえで)

 師匠はにっと笑うと、またリンゴの皮をむく作業に取りかかる。僕は上半身を起き上がらせると、師匠に向かって尋ねた。

「師匠、何で僕は生きているんでしょうか? あの時、あいつは何で…あの連中と共に僕を(ほうむ)らなかったんでしょうか? 僕は、生きても良いんでしょうか?」

「何でそう思える?」

 師匠はナイフで皮を向きながら訪ねた。僕は続ける。

「だって、あいつは…僕に、殺されたいんでしょうか? だから、生かしたのかと」

 それと同時に蘇る、あの台詞。


『お前が言う両親とやらと、こいつらを全員葬ったのはこの俺だ』


『楓、おまえがいう両親の仇を討ちたきゃ、俺を探し出して仕留めろ。ためらいも無くな』


「さあな。他人の考えなんて、そんな物は知ったこっちゃねーよ。ま、生きているだけでナンボのもんだ」

 僕は黙ってしまった。師匠は皮をむく作業を続けながら言う。

「物は壊れても専門の修理屋に出しちまえば直っちまうが、命ってもんは専門の修理屋に出しても絶対に直んねーもんなんだからよ」

 師匠はナイフの柄を口に加えると、皮を()かれたリンゴ丸ごと僕に差し出した。僕は、ためらいを覚えつつも一口かじる。

 リンゴ特有の甘ずっぱさが口内に広がる。すると、僕は無意識に眼から雫を出していた。それを見た師匠は、ナイフを折りたたんで懐にしまうと僕の頭をなでながら言った。


「生きていなかったら、リンゴの味なんて分からなくなっちまうだろ。楓」


 その時の師匠の笑顔とリンゴの味は、きっと一生忘れる事はないだろう。



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 それから、僕は無事に退院した。その際に師匠と話し合った結果。

 黄緑水晶と契約し、天候族の族長になると同時に、第一部隊に配属された。あいつの奇行を止めるためには、それしかなかったうえに、師匠や華澄(かすみ)姐さんに恩返しをしたいから…が、その理由だ。

 そして、南の地で起こったマフィア同士の抗争跡地を歩いていた時に、後々パートナーとなるあいつと出会う事になる。

 それは、また別の話だし、僕が語るべきことじゃない、あいつの役目だ。

Fin.