第壱章 零話 −鐘は音を立てて鳴り始め−
とある国の首都からかなり離れた所に、昼も暗ければ夜も暗い森がある。天まで届きそうな木々が空を遮り、光が地面まで届いていない。
その森の中を、一匹の妖魔が己の力を振り絞って走っている。妖魔の顔はみにくく、歯や爪の先には――おそらく人間のものだろうと思われる肉片がこびりつき、その全身が――これも人間のものだろう――真っ赤な血で染まっている。
妖魔は立ち止まって、自分が今まで走ってきた道を振り返る。その道は空と同様、闇に包まれていて奥まで見渡す事ができない。すると、奥から小さい点が見える。妖魔はじっとその光を見つめた。だけど、その小さな点は少しずつ大きくなり、やがて獣の形に変化した。
妖魔は獣を見た瞬間、二、三歩後ずさりすると後ろを向いて走り出した…先程よりも速く。後ろにいる獣よりもなお、速く。
獣――正確には狼犬の姿をした妖魔だが――は、己の前足で勢いを殺すと、上を向いて森の住人たちがおびえてその場から逃げ出してしまうような遠吠えをした。すると、その遠吠えを聞きつけてだろうか、三頭犬が狼犬の元へ駆けてきた。三頭犬の背には白髪の青年が乗っている。どうやら、三頭犬と狼犬の飼い主らしい。
青年は髪の毛が雪のように白いので正確な年齢は不明だが、背中まであるそれを緋色の紐で後ろにまとめている。目は金色で強い意志を感じることができ、肌は髪と同じ位白い。右耳に黒くて丸いピアスと銀でできているであろう、細めのイヤーカフスをつけている。
服装は黒い羽織、それの下に白い長着に黒い袴。靴は安全用のそれと何かちぐはぐな印象を与えてしまう。
「ガルム、目標はどっちへ行った?」
青年は狼犬――ガルムに尋ねると、ガルムは己の飼い主を先導するかのように前方を走り出した。その様子を見た青年は三頭犬の耳元で呟いた。
「ケルベロス、行くぞ」
『御意』
主の命令を受けた巨大な三頭犬――ケルベロスはガルムの後を追って走り出す。案の定、妖魔はすぐに見つかった。血まみれの身体で、ガルムに食い殺されるのを恐れながら、その巨体を揺り動かしながら走っているのだ。青年はそのこっけいな様子に笑うのをこらえながら、懐から黒いIMI デザートイーグルを取り出した。自分たちの前方を走っている妖魔に対し、威嚇するつもりで発砲する。
物音ひとつないぐらい静かな森の中で住人たちを叩き起すための鐘のような銃声が轟くと、木の枝に止まっていた鳥たちが驚いてその場から逃げるようにはばたき、近くの木の根や幹に巣を作っていた動物たちが我先にと逃げ出した。
******
同時刻。つまり、白髪の青年が妖魔に向かって発砲した時。その場から真向かいの場所で、緑髪で隻眼の青年と赤髪の女性が背中を預けあっていた。二人の周囲を、数匹の妖魔が囲んでいる。
女性の外見は二十四才前後、赤髪を高く結い上げている。目は髪と同じ位赤いが、妖魔をにらんでいる目は紅蓮の炎のように赤い。右耳に橙色の丸いピアスと――青年と同じ素材で作られた――あのイヤーカフスをつけている。
服装は黒い羽織、その下は白衣に緋袴。足元は足袋に草履を履いている。
彼女の真後ろにいる青年は緑髪で左目が青く、右目は額からほおまである痛々しいとそこまで伸ばした前髪からのぞいている黒い眼帯のせいでよく見えない。
おそらく、右目は使い物にならないのだろう。右耳に緑の丸いピアスと――青年や女性と同じ素材だと思われる――あのイヤーカフスをつけている。
服装は黒い羽織、その下は白い着流しを着ているがはだけていて、左の鎖骨と胸部の境目に三つ葉を思わせる緑色のアザがある。
足元は素足に直接雪駄を履いていた。
女性は真正面にいる妖魔を見据えながら、青年に聞こえるように言った。
「ほんっとに、あたしゃついてねーよ。せっかくの休日がジジイから直の電話で休日返上だっつーの。奴め、後でシメて本部の屋上から吊り下げてやる」
無理言って連れてきたお前らには悪いと思っているんだぜ、と付け加えて。…彼女は外見が美人だけど、口調は夜中の街にいる不良そのものだ。
「…どうする?」
青年は左手を眼帯に伸ばしながら女性に尋ねた。
「どうするったって、こっちは絶体絶命なんだぜ。リュウに助けを求めようったって無理だっての。ヴァイス、ついでだけどな。絶対に、その眼帯を外そうとすんじゃねーぞ」
「……そうか。ならば」
青年――ヴァイスは女性の返事を聞くと、眼帯へ伸ばしていた左手を地面にかざし
「出て来い、ノーム! 妖魔達を地へ潜らせ、二度と地上へ出て来られないようにしろ!!」
と、叫んだ。
すると、地面から土気色の手が伸びて二人の周囲にいる全ての妖魔の足首をつかんだ。妖魔達がどんなに暴れようとも、どんなに抵抗しようともその手は妖魔達の足首を放そうとしない。そして、一匹、また一匹が断末魔をあげながら地面の中へ埋まっていく。
女性は懐をまさぐりダガーナイフを取り出すと、自分の近くにいた妖魔の首を切り裂いた。肉がそげる音と骨が断ち切られる音、血管が千切られる音と同時に、その中身が周囲に飛び散る。その妖魔は、自分の仲間のように断末魔をあげることは無く、その首は宙を舞うと二、三回跳ねて地面に落ちた。
そして残された胴体は、他の妖魔と同様に地面に埋まってしまった。女性が首の着地地点まで走りそれを拾い上げた時、妖魔達は全て土に埋まった後だった。言うまでもなく、首を斬られた妖魔もふくめてだ。
「…ヴァイス、お前な。この状況を脱するのに眼帯を外そうとするんじゃねーよ」
「……」
「…お前な。聞いてんのかよ、バカ猫!」
女性が苛立ち混じりに叫ぶと、ヴァイスは左目を半分ほど閉じて彼女の方を向いて口を開いた。
「……今度からは気をつける」
「そうしてもらいたいぜ。あーあー、頭も埋めやがって。残酷以外の何もんでもねーな、こりゃ」
「…こいつらが犯した事よりマシだと…俺は思うのだが」
「だな」
女性が納得すると、ヴァイスは再び地面に左手をかざした。それを終えると、彼は彼女の方を向いて
「…リン」
「あ?」
「……リュウは無事だろうか?」
「何だよ、藪から棒に」
女性――リンは、少しだけ腕を束ねるとヴァイスの方を向いて
「あー、あれか。ま、大丈夫なんじゃねーの」
リンは、唇を三日月のようにあげて笑って言った。
「あいつ、お前が心配している以上につえーしよ」
その答えに対し、ヴァイスは
「……別に心配しているわけじゃない」
と、自分にしか聞こえないように呟いた。