壱話 −運命の歯車、回り出す−
ある日の早朝。
障子の間から朝特有の柔らかい光が差し込み部屋を少しずつ明るくしていく。その部屋の主は小鳥やすずめのさえずりや、にわとりのけたたましい鳴き声にも反応をみせずに、ただ眠り続けている。
部屋の中央に置かれた掛け布団の間から橙色の髪がのぞいている――リンがリュウ達四人に見せた写真に写っていた少女だ。なぜか分からないが、彼女が寝ている布団の横に木刀が置いてある。
布団の中が動いて、寝起き状態の少女がそこから顔を出した。永い眠りから目覚めた姫君のようにとはいかないが、目を覚ましたらしい。彼女は、大欠伸を一つすると目をこする。そして、布団から出てくると木刀を持ってふすまに手を伸ばした。
すると、彼女が手を伸ばすよりも先に、ふすまが勝手に動いた。否、正確には部屋の向こう側にいた少年が――写真に写っていたもう一人だ――部屋のふすまを開けたのだ。
腰まで届く漆黒の髪は白い布で一つに下のほうで結んでいる。顔立ちは日本人形のようだが、表情は――良くてポーカーフェイス、悪くて仏頂面――で、狼を思わせてしまう切れ長の目が雪を思わせる銀色の瞳で少女を見据えていた。
服装は白い稽古着だが袖口部分を紐で縛っている。下は黒い袴だがよく見ると剣道用ではない。彼の後方の壁側に、柄が樫の木でできた武器が置かれていた。全体の三分の一の部分は竹で形が刀のように反っており、その両端に布が巻かれていていた。
「どこへ行こうとしているんだ? 弥生」
少年がドスの利いた声で尋ねると、少女――弥生が恐る恐る彼の方を向いて口を開いた。
「ええっとぉ、向かいの家に…行こうかな〜…なんて」
「今まで寝ていた格好でか?」
「え? …あ」
弥生の顔から火が出ると、少年が呆れたようにため息をついた。
「……お前さ」
「……はい」
「今日は寝坊したから早朝稽古をサボる気だったんだろう? 違うか」
「はい、その通りです。あれ睦月、どうしたの? その格好。いつもと違う」
弥生が少年――睦月の服装を見て尋ねた。質問の意図を理解した彼は、稽古着をつまんで答えた。
「これは薙刀の稽古着だ」
「何それ?」
睦月はこの瞬間、どう返事をしたら良いのか解からずとまどっていた。
「なあ、弥生」
「何?」
睦月は平常心を装いながら、彼女に尋ねた。
「俺さ、お前に薙刀について教えていなかったか?」
弥生は黙って首を横に振った。それを見た睦月は「教えてやる」と言って大げさに咳払いをすると、授業内容が理解できない生徒を教える教師のような口調で語り始めた。
「薙刀って言うのは主に女性向けの武術とか、槍と扱い方が同じって思われがちなんだけどな。本当は振り方が槍と違うし、男女問わずできるんだよ、剣道みたいに。まぁ、剣道が一般に広く知れ渡っているとしたら、薙刀は知る人ぞ知るって感じなんだ」
弥生は黙って聞き入っている。睦月は続けた。
「あの壁に立てかけてあるのは練習とか試合用で、流派によっては一本の木でできた薙刀と木剣――木刀の事だ――とか、木でできた短刀の三つを使うのもある」
理解できたか? と睦月が目で訴えれば、弥生は黙って頷いた。
「今から早朝稽古をやるぞ。仕度しろ」
「え? 聞くけど。今まで何をしていたの」
「自主早朝稽古だ」
その台詞から察すると、睦月は今まで薙刀の自主稽古をしていたようだ。
「さっさと着替えろ。後で俺の部屋に来い」
と言って、彼は音を立てずに襖を閉めた。弥生はため息をついて布団を畳んだ。
三年前から睦月はこの家に居候をしているが、未だに彼女は彼が自分に剣道の稽古をつけるのが理解できないからだ。
――どうせ、睦月に何を言ってもムダだ。だって、直接文句言ったらご飯が危なくて食べられないし。
弥生は、あきらめて浴衣から剣道の黒い稽古着に着替え始めた。
******
弥生が稽古着に着替えている頃、睦月は自室で薙刀の稽古着から剣道の黒い稽古着に着替えていた。彼は、左手の甲に目を止める。その手は雪のように白く、傷が一つもついておらずなめらか。まるで、女の手のようだ。
――まだ現れていない、か。俺の封印も弥生のも、いつまで持ちこたえられるのかは時間の問題だな。
彼は深呼吸を一回行うと、一旦止めていた手を早めてあっという間に着替え終わる。もう一回深呼吸をして襖を見た時に、それが開いて弥生が部屋に入ってきた。
彼女の服装は黒い稽古着にそれと同じ位黒い袴。左手に赤い紐を、右手に木刀を持っていて彼と同じ素足だ。
「むーつーきー。お願い」
「わかった。ここに座れ」
弥生は睦月が指示した所に袴を丁寧に捌いて座ると、彼女は彼に紐を渡した。睦月は、弥生の背後に回って紐を口にくわえる。そして、弥生の髪を左右に振り分けて壊れ物を扱うかのように編み始めた。
「のびたな」
「何が?」
「髪」
「まぁねー。今の所は髪を切る予定なんてないし」
「切らない方が良いぞ」
「何で?」
「髪は女の命、と聞くからな」
「睦月、それ偏見だし、古いよ」
弥生の一言に、睦月は二の句が告げられなかった。彼は己の手が止まっていることに気づくと、先程のように髪を結い上げて紐で毛先をまとめた。
「おい、弥生。いつもの三つ編みができたぞ」
「ありがとう、睦月」
「どういたしまして。早朝稽古に行くぞ」
「あいあい〜」
「『あいあい〜』じゃなくて、『はい』だ」
「…はい」
「ためがあるのは気のせいとしておこう」
睦月は壁にたてかけてあった木刀を持って左腰にさすと、襖を開けてその場から離れた。弥生も立ち上がって彼に続いて同じ動作をして襖を閉めた。彼女は廊下で待っていた彼と合流して玄関へ向かう。
「あのさ、今日の早朝稽古は軽くして欲しいんだけど…」
弥生はおそるおそる言ってみるが、睦月に一言で切り伏せられた。
「それはお前のやる気次第」