肆話 −意思と意志−
天正村の陽炎山。そこは昨夜、弥生がリュウとヴァイスに話した『白蛇が眠る』と村人達が恐れて誰も登らない山だ。
――陽炎山に登ると白蛇様の怒りを買う――
――陽炎山に登ることを許されるのは白蛇様ご自身がお決めになさった花婿のみ――
村人達はそうささやきあい、絶対に陽炎山へ足をふみ入れようとしないのだ。
うっそうと木々が生い茂る山中は、昼も暗ければ夜も暗く光が地面まで届く気配が全くない。まるで、悪鬼悪霊や魑魅魍魎の類が、日中に出現してもおかしくない程。その山の奥の奥に、樹木がない野原がある。そこに湖があり、そこの奥に何かが潜んでいる。
それは、目を見開くと空へ向かって先が二つに裂かれた舌を出した。まるで、何かを求めるかのように。それが動くと、湖の底にたまっていた泥と水が混ざり合いにごりだす。
湖の底には、それ以外に白い物体があった。その形はまるで、人骨のよう――――。
そこの傍にいた白蛇の仮面の者がそこから湖の中をじっと見ている。その者は白蛇の仮面を被っていて、顔が見えない。
服装はこの国では珍しい白いローブを着ていて、白い革靴を履いている。
仮面の者は湖の中をのぞくと両手で素早く印を結ぶ。そして、煙のように姿を消した。
******
次の日、早朝。
睦月が朝早く起きて耳をすませた時、弥生はまだ寝ているようだった。彼は剣道の黒い稽古着と袴に手早く着替えた。着替え終わると、自分の左腰に木刀を差して入れた。そして、部屋を見まわしてそこを出る。
――昨日寝たのが遅かったからな…これであいつが起きていたらかなり厄介な事になるんだが。
睦月は廊下を進んで、愛用の草履を履いた。
玄関の引き戸を静かに開けて、陽炎山の方向へ視線を向く。その時点で彼は気がつくべきだったのだ…背後に白蛇の仮面の者がいる事に。
仮面の者は、睦月が自分に気づくヒマを与えずに――素早く彼の首筋に手刀を叩き込む。そして、気絶した彼を米俵のように背負うと、再び両手で素早く印を結んで煙のように消えた。
その一部始終を、屋根に止まっていた白い鳩が見ていた。すると、白い鳩は翼を動かしてどこかへ姿を消した。
睦月が白蛇の仮面の者に連れ去られてから、数時間後。
弥生が起きた時、家に睦月の気配がない事に気がついた。彼女は布団をたたんで彼の部屋の襖を叩く。いつも自分より早く起きる彼が、今日に限って起きてこないから自分が起こそうと思ったからだ。
――どうせ、本の読み過ぎだと思うんだけどね。
そう思いながら襖を開けた。だけどそこにあるのは、壁を占めている本棚と、今は亡き弥生の母親が残してくれて、睦月が使っていた文机。真ん中に敷かれている布団のみだ。
弥生はそれを見た瞬間、頭の中が真っ白になった。すると、彼女はぎこちない足取りでどこかへ行ってしまった。
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リュウが起きた時、ヴァイスはすでに身支度を整えていて、いつもの黒い羽織に白い着流し――ヴァイスから見たら白い着流しだが、周囲から見たら白装束だ――だった。
「……ようやく起きたか」
「ヴァイス」
「…何だ」
「お前さ、寝ていたのか?」
リュウが尋ねると、ヴァイスは蚊の鳴くような声で呟いた。
「…………ない」
「は? お前、今何つった?」
リュウが聞き返すと、ヴァイスは真顔で答えた。
「あんまり眠っていない。あの後からな」
「寝ろよ! 寝ないと死ぬぞお前! 絶対に!!」
「……」
「おい! 何か言え!!」
リュウが怒鳴ると、ヴァイスは渋々と言いたげに口を開いた。
「…断る。…それに、今から出かけて来る…。……悪いがリュウ、俺の分の朝食も…食べておいてくれ」
あの老婆に色目で見られながら食うのはゴメンなんでな、と一気に言ってヴァイスはさっさと部屋を出た。その場に一人取り残されたリュウは、卯月が呼んで来るまでずっとそのままだった。
雪駄を履いて引き戸を開けたヴァイスは、柳の家の離れを見据えて歩き出した。
――昨日の話が本当なら、…この離れがあの二人の住居。
離れについて、引き戸に手をかけようとしたその時、彼の動きが止まった。
――…違う。ここには弥生はいない。…まさか……あいつ…!
ヴァイスは左右を見渡すと、家の右側に細長い道を見つけた。幅はリュウ位の体格の者がやっと通れるといった所だ。その道を見た瞬間、彼はそこを走り出した。
――俺のカンが正しければ、恐らく……弥生は…。頼むから、無事でいてくれ…!
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『混ざり者! この村から出て行け!!』
――…弘化に住んでいたけど、借金をこさえて命からがらこの村に逃げてきた親を持つガキが言う台詞なの? それ。
『弥生、ごめんね。…傍にいてやれなくて。ごめんなさい…』
――お母さん、嫌だ! 死んじゃ嫌だよ! 目を開けてよ、お母さん!
『あの子は…弥生はやはり×××だ』
――そうかもね、私は…だから…。
『…言いふらさないの?』
――うん。私は他人の秘密を言いふらさないのって趣味じゃないし。
『…でも、村の子供に虐められていた時、その子の家の秘密を言い当てたって……。そう、聞いた事があるんだけど』
――…あれはただの脅しだよ。逆にますます怖がらせちゃったけどね。
『ここに住んであげる。それだったら、寂しくないでしょ? その代わり、あんたは私の秘密を守って欲しいの』
――良いよ、名前は? 私は弥生って言うの。
『ああ、名前? 名前は…』
――へぇ。良い名前だね。
『ありがとう。私も気に入っているんだ。これからもよろしく、弥生』
――こちらこそ。これからもよろしく、睦月。
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村の中を流れている寛政川を見ながら、弥生はため息をついた。それと同時に、右二の腕に激痛が一瞬だけ走った。
――変だな、私らしくも無い。昔のことを思い出すなんて。
川の中に足を入れた時、冷たさが全身を駆け巡る。石についたコケのせいで足の裏がすべりそうになるが、そんな事は気にもとめない。
――ゴメンね、睦月。あんたのお願いを叶えたいのは山々なんだけど、私は、生きてはダメなんだ。だって、私は×××だから。
弥生は川の中を歩き続ける。浴衣のすそがぬれ始めるが、彼女にはそんな事は気にしていられないし、むしろどうでも良い事なのだ。そのまま足を進める度に浴衣がぬれて重みを増し、自ら直接体温を奪われる感覚を彼女は味わっていた。自分の背後で気配を感じたので振り返ると、そこには息を切らして左胸をおさえながらその場でうなだれているヴァイスがいた。その様子だと、走ってここまで来たらしい。
ヴァイスは息を整えて立ち上がると、弥生に尋ねた。
「…一応訊こうか。何をしている? 弥生」
「見てわからないの? ヴァイス、言っておくけど止めたってムダだから」
弥生はそっけなく答えると、足を進めた。すでに浴衣は太ももの部分までぬれていて、体温が大分水に奪われている。
「…何で、自決するに至った?」
ヴァイスが尋ねると、弥生は振り返って彼を視界に入れると、淡々とした口調で答えた。
「簡単なことだよ。私は生まれてきてはいけない存在だから」
「…どう言う事だ?」
その問いに、弥生はヴァイスの方を振り向く。その瞬間、彼女は己の中にある感情を爆発させた。
「…私自身が、私自身が、化け物だからよ!」