陸話 −伝承の終焉− 肆
白蛇の頭上に降り立った睦月は、なんの躊躇も無く右手に持っている脇差を握り締めると、その場でしゃがみこんで改めて白蛇の額を見据える。彼女の目の前には、湖の中で見えた印が今も消える事無く残っていた。それと同時に、睦月の耳に懐かしい声が己の脳内でひびく。
『季冬、よくお聞きなさい。もし、お前が見える人や動物の額にこの花――曼珠沙華が見えたならば…』
――分かっています、おばあ様。…曼珠沙華、“死神”にとってこの印は……死人の証。自らの能力をもってして葬るべき、対象。
睦月は白蛇に対して「すぐにあの世へ旅立たせてあげる」と呟くと、脇差を両手で握り締め直して振りかざす。そして、己にしか見えない死人の印
――血のように紅い曼珠沙華に向かって脇差の刃を突き刺した。
白蛇は、額からくる痛みと熱によって意識を奪われながら断末魔もあげる事無くその巨体を湖の水面へ叩きつけた。
「睦月!」
リュウはガルムに湖の浜辺まで行ってもらい、そこでガルムから降りて湖へと近づく。湖をよく見ると、額と背中から大量の血を流している白蛇が横たわって浮かんでいた。白蛇によって血の海と化した湖を、口に脇差の柄をくわえた睦月が器用に泳いでリュウの所までやって来た。彼は、大薙刀を地面に置いて睦月に両手を差し伸べる。睦月はそれに対して己の両手をつかむ事で承諾し浜辺へとあがった。脇差を鞘に収めた睦月に対し、リュウが自分が着ている羽織をその場で脱いで睦月の肩にかけてやった。
「着ていろ。…その、あれだ。お前、湖泳いでいたから寒そうだし、俺達が来るまであいつらと戦っていたから体力ある程度落ちているだろ。まぁ、水ある程度吸っているから重くて余計に寒いかもしれねーけど、無いよりはマシだしな、うん」
「リュウ…ありがとう」
「どういたしまして…って、お前。そのアザ」
リュウが睦月の左手の甲を指差して聞くと、睦月はきっぱりとリュウに向かって答えた。
「うん、あんた達と同類よ。まぁ言うまでも無けれど、弥生もね。私は“死神”、あんたは?」
「…“妖魔”」
リュウの答えに、睦月は納得したように頷いた。
「ああ、だから白蛇に“妖魔の黒犬”って呼ばれていたのね」
「…うるせー」
睦月がにやりと笑いながら言うと、リュウはそっぽを向いて呟いた。
弥生は、自分の周囲を包んでいる竜巻の状態を維持しながら目の前の仮面の者をにらみつけていた。ヴァイスは黙ってその場でしゃがみこむと、事の成り行きを最後まで見守る事にする。仮面の者は、自分が今とてつもない者を怒らせてしまった事を内心後悔していた。だけど、どれだけ仮面の者が後悔し弥生に跪いて懺悔をしようとも――彼女は絶対に仮面の者を許しはしないだろう。
弥生はその碧眼を睦月のように据えて仮面の者を見つめると、まるで犯罪者に死刑判決を言い渡す裁判官のように言葉を紡ぐ。
「お前だけは、絶対に許さない」
完全に頭に血が上っている弥生は、自分が何をしているのか把握出来ていない状態だ。弥生は、指揮者のように右手の人指し指を高く振り上げると――躊躇も無く振り下ろした。その瞬間、指先から風の刃が竜巻の間から飛び出して――仮面の者の胸部を直撃した!
その直後、白蛇が背中と額から血を流して倒れると同時に仮面の者が体をくの字に曲げた。そして、労咳を患っている者のように咳き込んでしまう。すると、白蛇の仮面の下から血が滴り落ちた。
『…ざけるな』
「…え?」
『ふざけんな、小娘! お前ごときが…“風”の能力を遣えるなんて、こっちは聞いていないぞぉ!』
その瞬間、弥生は正気に戻ってヴァイスの方を見て尋ねる。
「ヴァイス…私、何かした?」
「……したさ」
弥生が人差し指をこめかみに当てて考え事をしていた。その時、
「全く、好き勝手してくれたね……役立たずが」
何時の間にか仮面の者の背後に紺のマントを着た少年が現れて、いきなり右手の手刀で仮面の者の心臓を貫いた。
『ぐ…ぐぅ! あ、あ、あなた様…は』
「ボクの名前まで言わないでくれる? 役立たず」
少年は剣呑な口調で仮面の者に言うと、手刀を捻る。
『ぐぅ…っ』
「これで少しは大人しくなったか。…それにしてもお姉さん、すごいね。こんな奴に対して、“風”の能力を使うんだもん」
少年は外見に相応した口調で弥生に向かって声をかける。すると、ヴァイスが立ち上がって弥生の元に駆けて来て、少年の前に立ちはだかるや否や彼をにらみつけ、腰の獲物に手をかける。それを見た少年は、唇を歪ませて彼に声をかけた。
「久し振りだね、“精霊の白猫”」
「………そうだな」
「やだなぁ、そんなに警戒しないでよ。ボクはね『東の地に在留中の役立たず達を始末して来い』ってさ、あの人に命令されたからここに来ただけだし。そっちに干渉する気なんて無いよ…今回だけだけどね」
「…ふん」
その時、光の刃が少年に向かって襲い掛かってくる。すると彼は、何事も無いような表情でもう片方の手で手刀を作りそれを払いのける。その直後に、ヴァイスと少年の対角線上に楓が留衣を俵担ぎした状態で降りてきた。その後を、リンが猫のように着地する。楓が留衣を降ろした時、少年が三人の方を向いて声をかけた。
「やぁ、久し振りだね。“時空の狐”に“闇の暗殺者”……そして“天候の吸血鬼”」
「今回といい、前回といい……やっぱり、てめーが主犯か。“血染めの道化師”」
リンが少年――“血染めの道化師”に呼びかけると、彼は狂ったように――自分自身が歪みに満ちあふれているかのように微笑んだ。
「“時空の狐”、君は勘違いをしているよ。前回はこいつとは違う役立たずが主犯だけどね、今回はこの役立たずなんだ。で、何でボクが来たかというと、こいつを今から始末するためさ。…こうやってね」
“血染めの道化師”は仮面の者の身体を天高く放り投げた。その直後に
「出てきなよ、ボクのリヴァイアサン!」
と、湖に向かって呼びかける。すると、湖の底から水面によってぼやけた魔方陣が光を伴いながら出現した。その直後、白蛇を上回る体長の大蛇が白蛇に食らいついて一気に飲み込む。そして、その巨体を伸ばして己の主によって放り投げられた餌に再び食らいつくと、再び湖へと姿を消した。沈黙が漂う中、それを打ち破ったのは。
「なるほど。あんたが来た目的は、今まで東で起こっていた事件…それも、あんた達が関わった全ての事件の証拠隠滅って訳ね」
睦月が何時の間にか弥生の目の前に立ち、その銀の目を据えて“血染めの道化師”を見据える。その隣には、大薙刀を右肩に掛けて右手に柄を持つリュウの姿があった。“血染めの道化師”は、睦月の台詞に対して再び歪んだ微笑みを見せて
「その通りだよ、“死神”の能力を使うお姉さん…と、ついでに“妖魔の黒犬”。今度会ったら、見逃すわけにはいかないし…ね。おっと、ボクは今から行く所があるんだった。じゃあね…ヴェズルフェルニル!」
“血染めの道化師”は血と脂によって染まった右手を地面にかざして魔方陣を呼び出すと、ここで起こっていた戦闘が始まる際に彼が乗っていた鷹――ヴェズルフェルニルを再び呼び出した。そして、“血染めの道化師”はヴェズルフェルニルの背に飛び乗ると、そのままどこかへと旅立っていく。
血の海と化した湖と、弥生達をその場に残したまま。