弐話 −今亡き者と今生きる者の願い− 参
睦月がちゃぶ台で墨をすっていた時、上からの騒がしい音を聴いた瞬間に顔をしかめて呟いた。
「あいつら…後でシバイたろか」
「睦月、ここでキレるのはやめて欲しいさ」
睦月の背後に般若が飛び出しそうになったのを予測した柘榴は、先手を打って彼女を落ち着かせた。彼女の向かい側に座ってウィリーの翼をなでていた留衣は、いつ実姉が怒り狂うのかと凶悪殺人犯を目の前にした心境で見ていたが、柘榴が止めてくれたおかげで落ち着いて実姉と話をする事が出来ることに安心していた。
「睦姉、弥生さんに…」
「全部話した。何もかも、全てをね」
留衣がおずおずと切り出したが、睦月は竹を割るように実妹の質問に答えた。その瞬間、留衣は目が点とは一体どういう事かを理解した。睦月は、メデューサに魅入られて石になった人間のようになった留衣を見て「この手紙書き終わったら、ウィリー貸しなさいよ」と言って墨を再びすり始めた。ただし、留衣の頭の中はそれどころではなかった。
――あの睦姉が全部教えた? そ、それって、脅されて仕方がなく? それとも、弥生さんにばれて渋々? ううーん、どっちなんだろう…?
睦月は筆に墨をつける前にそれを硯に置くと、留衣の額を指ではじいた。
「いだいっ」
「言っておくけれど、私が弥生に全部話したのは、あいつが先に自分の出自を教えた代価としてよ。あんたが考えていること全部間違っているからね」
「ソウデスカ…」
睦月の言い分を聴いた留衣は、額を両手でさすりながら目の前にいる姉を見つめる。
自分と同じ漆黒の髪は夜色のカーテンを引いた空のようで、銀色の眼はその空に浮かぶ満月のようだ。よく睦月の事を『満月の夜のようだ』と比喩する人間がいたが、留衣はその通りだと思う。
漆黒の髪は傷んだ所すら無く真っ直ぐに伸びているし、銀色の眼は一旦眼を据えると実の身内どころか、そこら辺の武士さえもたじろいでしまう迫力を持つ。亡き祖母に徹底的に叩き込まれた剣術も、今は衰えを知らないどころか格実に腕が上がっている。
睦月とは反対に留衣は、『新月の夜のようだ』とか、『月を覆い隠す雲そのもの』と周囲の人間に比喩されてからかわれていた。その度に落ち込んでしまった自分を、睦月は手作りのあんみつを彼女にふるまってくれたり、行きつけのお茶屋に連れて行ってくれたりしてくれたものだった。
睦月が筆をとって紙に字を書き始めた時、階段を静かに降りる音がした後に自分達が今いる部屋の襖が静かに開いて弥生が入って来た。睦月は、字を書きながら「柘榴さんの手伝いよろしく」と彼女に指示を飛ばした。弥生は黙って頷くと、できる限り静かに柘榴のもとへと移動する。柘榴は弥生の姿を見ると、簡単な指示をして自分は弥生の隣へ移動する。
弥生がすり鉢を使い始める音が聞こえて来た時、睦月は筆で紙に字を書きながら言った。
「私は、あんたとの立場や地位、名誉が変わっても離れる気は全くないから」
弥生はその言葉を聴いて、黙って頷いた。その碧眼には、一滴の涙が流れていた。
******
その日の夜。
睦月が手紙を書き終わってそれをウィリーに持たせ、伝書鳩のように飛ばした時、上でどんちゃん騒ぎを繰り広げていた弥生以外の面子が一階に下りて来た。
そのうちの一人のリュウが居間へ入ろうとした時、台所から麺棒が矢のように飛んできて彼の右耳を掠めて後ろの壁に突き刺さった。恐る恐る視線を後方へ移すと、そこには麺棒だけではなく包丁や果物ナイフ、しまいには赤い髪が食い込んだキッチンバサミが突き刺さっていた。そして、視線を前方へ移すと…目を据わらせた睦月が仁王立ちしていた。
「ここに入りたけりゃ、洗面所で手を洗ってからにしろ」
リュウは半分涙目で頷くと、踵を返して廊下の奥へと飛んでいった。そこでは柊が手を洗っていて、彼の後ろを楓、ヴァイス、リンが並んでいる。リンが、リュウの姿を見つけて声をかけた。
「災難だったな」
「逃げやがったのかよ」
リュウが金色の目を半分に細めて訊くと、リンが手を振って答えた。よく見ると、リンのサイドの髪が一部だけ短い。どうやら、キッチンバサミに食い込まれた髪の毛の主はリンらしい。
「ちげーよ、柊以外全員被害者」
リンが言うと、楓とヴァイスが黙って頷いた。すると、ちょうど手を洗い終わった柊が暗い表情で教えてくれた。
「椿バアちゃんが生きていた頃も、あんな感じだったから予想できたんだよ。まぁ、睦月みたいに包丁とか麺棒とか投げなかったけれど」
それを聴いたリンが微妙な表情で「マジで?」と柊に聴いていた。柊は、黙って頷いた。
すると、台所から弥生が駆けて来て「料理当番から伝言。『さっさと手を洗って席に着かないと、全員が夕食を食べている横で正座させて夕食抜き、その後に食器類全員分洗わせる。ついでに、明日の朝食も夕食の時と同じようにする』だってさ」と言って踵を返すと、元来た道を戻り始めた。
それを聞いた柊以外の面子は、洗面所で手を洗おうとして――揉みあってひと悶着を起こし、それが睦月の怒りを再び呼んでしまったとは言うまでもない。
料理の配膳を終えて睦月の隣に座った弥生は、目の前に広がる光景に一瞬だけひるんだ。
彼女の向かい側に座っているリュウ、リン、ヴァイス、楓の顔や腕に包帯や絆創膏が髪や服に見え隠れしているからだ。
弥生は、隣に座っている睦月を一瞬だけ見る。すると、睦月はこちらを向いて弥生がいる事を確認すると両手を合わせて「いただきます」と、呟いた。そして、それに倣うかのように彼女以外の面子も両手を合わせて「いただきます」と言うと、各自箸を持って黙々と食べた。一言でも喋ると、料理当番が目を据わらせて調理器具を矢のように投げるかもしれないからだ。皆、先ほどの一件で睦月を怒らせたらどんな目に遭うのか嫌と言うほど理解できていた。
柘榴が各自食べ終わったのを見計らって台所へ引っ込むと、睦月もそれに続いた。数分後、人数分の茶を各自の前にふるまうと自分の席に着いた。
皆がお茶を一口飲んで一息つくと、リンが口火を切った。
「睦月、明日以降はどうするつもりだ?」
睦月は一瞬だけ目をつむると、両目を開いて答えた。
「“氷重”の本家に行く。それから、“青水晶”と“死龍神”の封印を解いてから本家の現当主と直談判。それからは、そっちの指示に従う」
それを聴いたリンは、満足げに微笑んだ。皆も、黙って頷く。だけど、柊だけは底知れない不安に襲われていた。
――睦月が男装していた事は、オヤジは一言も教えてはくれなかった。まさかだと思うけれど、あのバカオヤジ、睦月の奴を…。
柊の心を見すかすのように、弥生は静かに彼を見つめていた。